2011年1月16日日曜日

「ジョン・フランシスはひたすら地球を歩いてきました」(日本語訳文)

以下は、TED Talksのひとつ「ジョン・フランシスはひたすら地球を歩いてきました(John Francis Walks the Earth)」の、拙訳による日本語訳文です。このトークの紹介についてはこちらをご覧ください。





(音楽)

(拍手)

来てくれてありがとう。というのも、私は17年にわたって無言で過ごしたからです。その後初めて言葉を発したのはワシントンDCで アースデーの20年目の記念祭があった時でした。私の家族や友人たちが皆、私の話を聴きにきました。そして私は「来てくれてありがとう」と言ったのです。観客の中にいた母は飛び上がって言いました。「あらまあ、ジョニーが話してる!」

(笑い)

もしあなたが17年間何も話さなくて 母親が観客席にいたらどうなるか、想像してみてください。父はこう言いました。「それはひとつの-」 後ほど説明しましょう。でも私は別のところを見ました。自分の声がどこから来ているのかわからなかったのです。私は17年間自分の声を聞いていませんでした。それで振り返って言ったのです。「誰が私の考えを声に出しているんだ?」 そしてそれは自分だとわかりました。それでちょっと可笑しかったのです。それから父の姿が目に入りました-「あいつは本当におかしくなってる」と言ってました。

私の旅のことをお話ししましょう。私がしてきた旅は、他のどんな旅にも例えられるものだと思います。だから、私のしてきたことは確かに普通でないことだけれど あなた方には自らの旅のことを考えてほしいのです。

私の旅は1971年に始まりました。2隻のタンカーがゴールデン・ゲート・ブリッジの下で衝突して 50万ガロンの石油が湾に流れ出すのを見て 私はとても混乱しました。それで車やバスなどに乗るのを一切やめることにしました。それはカリフォルニアでは大変なことです。私が住んでいたカリフォルニア州インヴァネスのポイント・レイズ・ステーションという小さなコミュニティの中では 一大事だったのです。冬になると350人ぐらいしかいないような場所だったからです-1971年当時のことです。だから、私がやってきて歩き回り始めると、人々は 何が起きているのかを察知して 私のそばに車でやって来て言うのです。「ジョン、何をしてるんだい?」 私は答えました。「環境を守るために歩いているんだ」 すると彼らは言いました。「いや、俺たちが格好悪く見えるようにするためだろう、俺たちを困らせるために歩いてるんだろう」と。おそらく、それはある意味で当たっていました。自分が歩き始めれば皆もついてくるだろうと思っていたからです。石油の流出が起きたので、皆が環境汚染のことを話していました。そして私はそのことについて人々と議論に議論を重ねました。両親に電話して 「車に乗ったり運転したりするのをやめたんだ」と言いました。父は言いました。「なんで16の時にそうしなかったんだ」(笑い)

その時は環境のことを知らなかったのです。両親はフィラデルフィアにいました。私は母に言いました。「でも僕は本当に幸せだよ」 母は「もし幸せならそれを口に出さなくてもいいのよ」と答えました。母親というのはそういうものです。

その後、27歳の誕生日に、私は決断しました。たくさん議論をしてきたし たくさん話もしてきたから、しゃべるのをやめよう。1日だけ、休みを取ろう。それを実行しました。朝起きて、何も言いませんでした。それはすごく感動的な体験だったと言わねばなりません。長い年月の中で初めて私は聴くことを始めたのです。聞こえてきたことは、私を混乱させました。それまで私が聴いていると思っていた時にしていたことは 他の人が何を言っていることが聞こえる程度に耳を傾け 自分はもう彼らの言わんとすることがわかったと思えば 聴くのをやめていたのです。そして心の中で先回りをして 私は自分が返す言葉を考えていました。人がまだ話しているというのに。それから私はまくし立てていたのです。それではコミュニケーションが終わってしまうだけでした。

だからこの初めての日に私は本当に耳を傾けました。そして悲しくなりました。それまでの長い年月、私は学んでいなかったことを理解したからです。私は27歳で、何でも知っていると思っていました。大違いでした。だから私はもう1日聴くのを続けてみようと思いました。そしてもう1日、もう1日とついには 1年間無言でいようと心に決めました。聴くことでより多くを学ぶようになり、さらに多くを学ばねばならなかったからです。1年の間何も話さないでいよう そして来年の誕生日に自分が何を学んだのかを見直そう それからまた話し始めればいいと思っていました。それが17年間続いたのです。

その17年の間、私は歩き、バンジョーを弾きました。絵を描いたり日記を記したり 本を読んで環境のことを学ぼうとしたりもしました。学校に行こうと思い立ち、実行しました。歩いてオレゴンのアッシュランドに行きました。環境学の学位コースを持つ学校があったからです。たったの500マイルでした。学生課に行って- 何だ、何だ、何だ? 私は新聞の切り抜きを持っていました。本当に君はこの学校に通いたいの? もしかして…? 君のために特別のプログラムを用意しよう。それからの2年で 私は最初の学位-学士号を得て卒業しました。父がやって来ました。とても喜んでいました。父は言いました 「お前のことを本当に誇りに思う。でもその学位で何をしようとしてるんだ? お前は車にも乗らないししゃべりもしない そういうことをしていかなくちゃならないんだ」

(笑い)

私は肩をすくめて、再びリュックを背負い 歩き始めました。ワシントン州のポート・タウンゼントまでずっと歩いて行きました。そこで木造の船を造り ピュゼット湾を巡りました。ワシントン州を横断して、アイダホを通り、モンタナ州のミズーラに行きました。その2年前、モンタナ大学に手紙を書いて 大学に通いたいと伝えていました。大体2年後ぐらいに行きますと言っておいたのです。

(笑い)

2年後、私はそこにいました。そして大学の人たちは- この話をしているのは、彼らが本当に私を手助けしてくれたからです。モンタナでのことは2つ話さなくてはいけません。まず、私は全くお金を持っていませんでした-この仕草を私は幾度も使いました。大学の人たちは言ってくれました。「その点は心配しなくていい」 学科のディレクターは「明日また来なさい」と言いました。彼は私に150ドルくれて、 「1単位分だけ登録しなさい。南アメリカに行くつもりなんだろう?」と言ったのです。私は答えました- 川や湖、水理学のシステム、南アメリカ それで私は登録したのです。ディレクターが戻って来て言いました。 「ジョン、OKだ 君は1単位分登録したから、 オフィスの鍵も持てるし、大学への入学資格もある- 入学資格もあるから図書館が使える。私たちは 全ての教授に君の授業参加を認めてもらうつもりだ。彼らは君の成績を取っておいてくれるだろう。残りの授業料を調達する方法を見つけたら 君はそのクラスに登録できる。そして成績がつく。」 普通大学院ではそんなことはしてくれません。この話をしたのは、彼らが本当に私のことを助けたがっていたからです。彼らは私が本当に環境に興味を持っているのを知りました。そして私の手助けをしようとしてくれたのです。

その頃、私は話すことなしにクラスで教えていました。初めて教室に入って行った時、13人の学生がいました。私の身振りを通訳してくれる友人の助けを借りて 私は自分の名前がジョン・フランシスで、世界を歩き回っていて、 自分は言葉を話さず、友人がここで通訳してくれるのは これが最後だと説明しました。学生たちは皆座っていましたが茫然としてしまいました-。

(笑い)

彼らが時間割を探して いつになれば外に出られるのかを見ているのがわかりました。彼らはそのクラスを私と一緒に取らなければなりませんでした。2週間後、皆が私たちのクラスに入ろうとしました。

私はそのクラスでいろいろ学びました-私がこんなことをすると、学生たちは皆で集まって、先生は何を言おうとしてるんだ? わからないよ。彼は森の皆伐のことを話してるんじゃないの。そうだ、皆伐だ いや、ちがうよ。あれは皆伐じゃないよ。先生は手引きのこぎりを使ってる。そうだ それじゃ皆伐はできないな。いや、できるさ。そうじゃなくて、先生は森林の選択管理について話してるんだと思うよ。それはディスカッションのクラスで、私たちは議論をしていました。私は議論からは身を引き、乱闘にならないようにだけは気を配っていました。私が学んだのは、時折私が身振りをすると 学生たちは私が全く意図していなかったけれどそうすべきだったことについて話をするということでした。もし教師をしている人が教えている時に 自らが学んでいないのなら 多分あまり上手に教えていないのです。私はそうやって過ごしました。

父がやってきて私の卒業を見届けました。もちろん、私はもてなしました。父は言いました。「お前のことを本当に誇りに思う でも-」 何が起きたかはご存知ですね。父は「車に乗ったり運転したり話をしたりしなくちゃいけないよ。修士号を持って何をするつもりなんだい?」と言いました 私は肩をすくめ、リュックを持って ウィスコンシン大学に行きました。

そこで2年間過ごし、石油の流出についての論文を書きました。誰もそんなことには興味を持っていませんでした。でもあの事件が起きたのです- エクソン・バルデス号の石油流出事故です。アメリカで石油の流出を研究していたのは私だけでした。また父がやってきました。「息子よ お前がどうやっていくのかわからない。お前は車に乗らないし、話もしない。姉は、お前を放っておくようと言っている。お前は何も言わない時の方が ずっと良くやっているようだから。」

(笑い)

私はまたリュックを背負い、バンジョーを持って東海岸までずっと歩き、足を大西洋に入れました- 7年と1日かかって、私はアメリカを歩いて横断したのです。

そして1990年のアースデイで、アースデイの20年目の記念祭で、私は話し始めました。「来てくれてありがとう」と言ったのです。なぜなら、森で木が倒れるように、もし誰も聞く人がいなければ本当に音を立てたかどうかわからないからです。私はあなた方や私の家族に感謝しています。私の話を聴きに来てくれたのですから。それがコミュニケーションです。彼らはまた私に聴くことについて教えてくれました-彼らが私のことを聴いてくれたからです。沈黙から生まれてきたのはそういうものでした。お互いに耳を傾けることです。本当に、とても重要です- 私たちはお互いに聴かねばなりません。私の旅は続きました。父は言いました。「それは、ひとつの」 でも私はまだその先は言わせませんでした。

私は沿岸警備隊で働き、国連の親善大使になりました。私はアメリカの規制を書きました。石油の流出についての規制です。20年前、もし誰かが私に 「ジョン、君は本当に変化を起こしたいのかい?」と聞いたなら 「その通り 変化を起こしたいよ」と答えたでしょう。彼は言うのです。「ただ東に歩き始めるんだ。車から降りてただ東に歩くんだ。」そして私が少し歩いたところで、また言うのです。「そうだ、話すのもやめるんだ」

(笑い)

「君は変化を生み出せるだろう」 どうしてでしょう、何故なのでしょう? どうして歩くことや話さないことといった単純なことが 変化を生み出したのでしょう?

沿岸警備隊での日々は本当に良いものでした。そしてその後-私は1年しか働きませんでした- 私は思いました。「もう十分だ これをするのは1年で十分だ」 私はヨットに乗り、カリブ海に下って すべての島々を歩き回り、ベネズエラに行きました。そうだ、一番大切なことを忘れていました。なぜ私が話を始めたのかということです。そのことを言わなければなりません。私が話を始めたのは環境について学んだからです。私は環境を公式なレベルで学びました。でも非公式なレベルもあったのです。そしてその非公式なレベルで- 私は人々のことや自分たちが何をどのようにしているのかを学びました そして環境はただ木や鳥や絶滅危惧種についてのことから 私たちがお互いをどのように扱うのかということに変わったのです もし私たちが環境であるならば 私たちがすべきことはあたりを見回し 自分たちやお互いをどのように扱っているのかを知ることだけです それが私からのメッセージです 私はそのメッセージを伝えなければならなかったのです それで私はヨットに乗り、カリブ海をずっと帆走し- それは自分のヨットではありませんでした 私はそこで働いていたのです- ベネズエラについて歩き始めました。

私の話の最後の部分に入ります。どうやってここに来たのかという話です。今でも私は車に乗らないので ベネズエラのエルドラドを歩き抜けてきました-有名な刑務所の町で 悪名高くもあるところです。-何が私をそうさせたのか、わかりません。まるで自分ではないかのようでした。私はそこにいて、門を歩き抜けたときに門番が私を止めて言いました。「パスポート、パスポート」 M16ライフルが私に向けられています。私は彼を見て言いました「パスポートだって、ふん、 あんたにパスポートを見せる必要はない。リュックに入ってる。私はフランシス博士で、国連の大使をしていて、世界中を歩いているんだ」 そして私は歩き去りました。何が私にそんなことを言わせたのでしょうか? 道はジャングルに変わりました。私は撃たれませんでした そして私は言いました-ようやく自由になった。全能の神よ感謝します、私はついに自由になったのだ、と。あれは何だったのだろうかと私は自問しました。

自分の中で理解するのに100マイルかかりました。私は囚人になっていたのです。私は囚われの身で、逃げなければならなかったのです。私が入っていた刑務所とは、自分が運転もしなければ 自動車にも乗らないという事実でした。どうしてそうなったのでしょうか? 私がそれを始めた時、自動車を使わないというのは とても自分に合っているように思えました。でも、違っていたのは 毎年誕生日に私は沈黙について自問しましたが 自分の足だけを使うという決断については自らに問いかけていなかったのです。私は自分が国連大使になるとは思ってもいませんでした。私は博士号を持つようになるとは思ってもいませんでした。

私は、自分が抱える責任は私個人に関わることよりも広いもので 自分は変わらなくてはいけないと理解しました。それは可能なのです。私は変わらなくてはなりませんでした。でも変わることを恐れていました。 ただ歩くだけの人間でいることに慣れていたからです。その人間であることに慣れ切っていたので、やめたくありませんでした。もし変わったなら自分がどんな人間になるのかわかりませんでした。でもそうしなければならないということはわかっていました。変わらなければならないのはわかっていました。それが今日この場に来られる唯一の方法だったからです。ようやく素晴らしい場所にたどり着いたのに また別の場所に行かなければならないということが 私たちには何度も起こります。すでに到達した安心できる領域を後に残して 自分がなろうとしているところまで進まなければならないのです。あなた方がそうした次の場所に行く応援をしたいのです。あなた方が囚われているかもしれない檻の中から抜け出すために。それは心地よいことなのかもしれません。私たちは今何かをしなくてはいけないのだから 私たちは今変わらなくてはなりません。元副大統領は言いました。私たちは活動家にならなければならないと。もしわたしの言葉があなた方の心に響くのなら もし私の行動や私がここにいることがあなた方の心に響くのなら それを止めないで下さい。ここに来て、あなた方の全てが 私の心を動かしています。

だから、世界に出て行きましょう。TEDで見せあった 思いやりや愛、敬意を連れて行くのです。それらを連れて世界に出ましょう。私たちこそが環境なのです。私たちがお互いをどう扱うかということは 環境をどう扱うかということなのです。だから、あなた方に来てくれてありがとうと言いたいのです。5秒間の沈黙で私の話を終えたいと思います。

ありがとう。

(拍手)


※この翻訳はMasahiro Kyushimaさんにレビューしていただきました。 

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